「神君伊賀越え」の出発点となった地!
神君伊賀越えの出発地点!徳川家康が隠れ潜む!今回は、交野市星田にある伝 家康ひそみの藪にやって参りました〜♪
戦国時代に起こった本能寺の変!堺にいた徳川家康は危険を感じて、その日の深夜にこの辺まで辿り着きました。そして、付近の竹藪にひそみ、一晩を明かしたと伝わります。村の長の平井家では、沢山の握り飯を鶴の絵を描いた大皿に盛って提供し、信用のおける二人の農民を選出して、無事に道案内の大役を果たさせたと言われています。
徳川家康が命からがら三河国までたどり着いた、いわゆる「神君伊賀越え」。その出発地点が、ここだと言われているそうです。
もちろん諸説ある様なのですが、今も残る平井家には、家康のものとされる品が残っているそうですよ。
交野古文化同好会
伝 家康ひそみの藪
天正10年(1582年)6月2日
織田信長が京都本能寺において、明智光秀の反逆によって自害した。
その時、少人数の近臣を連れて堺に滞在していた徳川家康は、いち早くその情報を入手するや身の危険を感じ即刻、堺を出て本国三河へ帰ることにした。
その日の深夜家康は、この竹やぶにひそみ、村の長の平井氏に連絡して、山城方面に出るため、道に精通する農民を道案内人として出すよう依頼した。
平井家では、沢山の握り飯を鶴の絵を描いた大皿に盛って提供し、信用のおける二人の農民を選出して、無事に道案内の大役を果たさせたといわれている。
(現地案内板より)
「神君伊賀越え」とは
時は戦国時代!天正10年(1582年)のことです。
京にある本能寺で、織田信長が家臣の明智光秀の謀反により命を落としました。いわゆる「本能寺の変」です。
その時、大阪の堺にいた徳川家康は、信長と同盟を結んでいたため、非常に危険な状況になりました。しかも、家康のお供は、わずか数十人だったと言われています。
家康は、一度は覚悟し京に上って追腹を切ると言いましたが、家臣に強く止められました。そして、服部正成(半蔵)の進言を受け、伊賀国の険しい山道を越え、本領である三河国(現在の愛知県東部)へ帰ることにしました。これが、俗に言う「神君伊賀越え」です。
「神君伊賀越え」のルートは諸説あります。また、伊賀は少ししか通っていないという説もあります。
地図・住所・詳細
【住所】〒576-0016 大阪府交野市星田9丁目38−12
【駐車場】専用の駐車場はありません
【公共交通機関でのアクセス】
・JR学研都市線「星田駅」から徒歩で約20分
・京阪電車交野線「私市駅」から徒歩で約30分