2つの城跡と古墳のある平群中央公園【奈良県生駒郡平群町】

奈良

平群中央公園

平群(へぐり)中央公園は、奈良県の北西部に位置し、西に生駒山系、東に矢田丘陵があり自然と歴史に恵まれた町にある公園です。

遊具は、ロングローラー滑り台、ジャングルジム、ブランコなどがあり休日でも並ばないので子どもが思いっきり遊べます。芝生の平面も広いのでボール遊びをしたり、水鉄砲で楽しそうに遊んでいる子どもたちもいました。関西で子連れで楽しめるコスパ抜群のお出かけ穴場スポットです!

内堀跡にあるローラーすべり台
べーやん
べーやん

中盤のカーブで止まりがち
前半のストレートでクールランニングばりのスタートダッシュ決めることをお勧めします
【必要アイテム】軍手・ダンボール

他にもスポーツ施設として、グラウンドやテニスコート、ゲートボール場、ジョギング園路があり、駐車場も広く、公園内はきれいに手入れされており、トイレは2ヶ所、木かげも多数有り、西宮古墳や城跡もあるので歴史も一緒に学べ、子供から大人まで楽しむことができます。


【住所】奈良県生駒郡平群町若井345番地
※西側にある広めの駐車場は、体育施設の利用が無い場合PM5:00に閉鎖。←ご注意ください
※犬の散歩が禁止となっているのでご注意ください。

西宮古墳

西宮古墳は、奈良県生駒郡平群町西宮にある古墳で、形状は三段築成の方墳。
平群谷の廿日山丘陵の南側斜面に築かれ、1956年に奈良県指定史跡に指定されています。

方墳=古墳の墳形の一つ。平面形が方形で墳頂が平坦な古墳。
四世紀末頃に現われ、古墳時代後期から末期に盛行するが、大規模なものが造られるのは六世紀後半以降である。
墳丘は3段築成され墳丘斜面は約35度
横穴式石室は、南に開口し、玄室は墳丘中央部に位置しています

石室は平群町越木塚で産出された巨石(花崗岩の切石を用いた精美なもので、奥壁・側壁・天井石にはいずれも一枚石で積み木のように組まれており、目地には漆喰(しっくい)が詰められている。石室床面は墳丘二段目のテラス面に合わせられ、羨門の天井石には墳丘斜面に合わせた傾斜が加工されている。

羨門(えんもん)=横穴式古墳の入り口

副葬品は失われているが、調査において羨門部で須恵器坏蓋(つきふた)、高坏片が出土し築造時期は、古墳時代終末期の7世紀中葉-後半頃のと推定されている。

被葬者は明らかでないが、古墳の規模・内容から厩戸皇子(聖徳太子)の子の山背大兄王の墓とする説がある。

石室内には兵庫県加古川流域産の成層ハイアロクラスタイト(竜山石)製の刳抜式家形石棺が据えられており、現在は棺身のみが遺存している。

  • 石室全長:約14メートル
  • 玄室:長さ約3.6メートル、幅約1.8メートル、高さ約1.8メートル
  • 棺身:長さ2.24メートル・幅1.15メートル・高さ0.76メートル
べーやん
べーやん

夜に行くと心霊スポット機能も兼ね備えるマルチな古墳
日によっては「まさかの〜」もあり得るため石棺を覗く際はお覚悟を!!

遠い昔から

この辺りでは、弥生時代からの集落があったそうです。

平群中央公園にあったとされる二つの城跡

西宮城と隣接する下垣内城と共に、名将・島左近こと島清興(きよおき)の居城だったとされています。現在城址は公園として整備されており、遺構はすべて地面の下に保存されているそうです。

E 城跡広場(下垣内城)、G 西宮城跡、Hに西宮古墳があります

しょうぶ池をはさんで北側が下垣内城、南側が西宮城とされています。

しょうぶ池 南側から撮影
しょうぶ池から下垣内城へ向かう階段

西宮城について

築城年代は定かではないが島氏(嶋氏)によって築かれたと考えられています。
日本城郭大系によると、近くにある椿井城か、この西宮城のどちらかが「嶋城」と呼ばれた可能性があり、島左近の時代には、平群を中心に1万石の領地を所有していたと言われています。

公園内の解説文によると、西宮古墳付近が城の西端になり、隣接する平群神社のあたりが東端になると記載がありました。

 西宮城は、筒井氏の重臣、島氏(嶋氏)のお城です。島左近の時には平群を中心に一万石の領地がありました。永禄2年(1559)松永久秀が大和に乱入し、信貴山城を拠点に大和を支配します。西宮城も松永方の城となり、天正5年(1577)に織田信長に攻められたときに当城も落城したようです。
副郭と内堀跡地とされる場所
時計の右側が土橋、時計台より奥が主郭があったとされる場所
べーやん
べーやん

城跡に立つ公園のため歴史好きの大人、歴史に興味のない子供が同時に

同じ空間で楽しむことができるフードコートのようなスポットです。

下垣内城について

下垣内城跡から しょうぶ池と西宮城跡のある南側を撮影

下垣内城(しもがいとじょう)は、西宮城に隣接しており、島氏(島左近の一族)によって築かれたと考えられています。

当初は単郭の城と考えられ、地名をとって下垣内城となずけられていました。発掘調査で西に広がることが確認され、東西150m、南北120m以上の城郭であることがわかりました。
深い堀や土を盛り上げた土塁で囲まれ、石で組んだ溝や穴が確認されています。
出土遺跡により13世紀に築城、17世紀にかけて使用されています。
下垣内城は中世の岡城で、土を堀り盛り上げて防御を固めており、近世城郭のような石垣は用いられていません。
中央の南北堀は特に深く、土塁の上から8mもあり急勾配で掘削されています。
城主は鎌倉時代に富貴寺荘の下司職であった嶋氏が考えられます。
すぐ東隣りの安養寺に嶋左近の母親の位牌があり、郡山の筒井順慶に仕え、後に石田三成の参謀として関ヶ原の戦い(1600年)で活躍した左近との関係が注目されます。
(引用元:公園内の解説文)
べーやん
べーやん

頂上にある屋根スペースがお城の天守閣にいるような気分を演出してくれます。
子供の投げたボールを拾いに行くパパの姿は渋々配下に加えてあげた雑兵足軽の姿を思わせてくれる歴史なりきりスポット

おすすめ駐車場

【平群中央公園駐車場】
奈良県生駒郡平群町西宮1丁目8−4
※台数は6台。古墳やすべり台などの遊具が近い。※周辺道路が狭め


「島左近」について

一般には島 左近(しま さこん)の名で広く知られるが、実名は島清興(しま きよおき)である。
島左近は、1540年(天文9年)6月9日から1600年(慶長5年)10月21日まで生きた戦国武将で、石田三成の右腕として有名です。豊臣秀吉からは、石田三成の一家臣にしておくにはもったいないという意味で、「治部少(三成)に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」とうたわれたほど優れた武将でした。

出身地について、対馬国や、近江国とする説などがありますが、大和国出身説が有力とされています。

平群神社

平群神社(へぐりじんじゃ)は、奈良県生駒郡平群町西宮にある神社。
式内社(大社)で、旧社格は村社。俗称は「西宮」

かつて一帯を支配した平群氏の祖先とされる武内宿禰が、神功皇后と共に朝鮮へ出陣する際に戦勝祈願のために建立されたそうで、大山津見神(おおやまつみのかみ)が祀られています。

オオヤマツミ は、なんの神様?

大山津見神(オオヤマツミ)は、日本神話で山を支配する神。
伊耶那岐(イザナギ)と伊耶那美(イザナミ)の神生みによって、風の神・木の神・野の神と共に生まれた山の神。
山は数々の恵みをもたらすことから、恵みの神として金運や商売に繋げられ、雄大なイメージがあり軍神としても崇められるなど幅広い。代表的ご利益は「金運招福」

公園の南側にある小さな駐車場
平群神社へ向かう道
べーやん
べーやん

公園でパパの姿を見なくなったら、間違いなくここで
お小遣いUPの金運祈願&鬼嫁への戦勝祈願をしている事間違いなし!

【住所】奈良県生駒郡平群町西宮3−617
無料駐車場有り ※案内がない

今回紹介した動画はこちら

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