別所長治公首塚【兵庫県三木市】

兵庫

壮絶な最期をとげた長治公

 戦国の世を生きた三木の英雄!壮絶な最期をとげた長治公!今回は、三木市上の丸町にある別所長治公首塚にやって参りました〜♪
 三木城の南側、雲龍寺に寄り添うように、その小さな建物はありました。戦国時代、このあたりで行われれた「三木合戦」で、領民や家臣の命を救うために自害した、三木城主・別所長治公の首塚です。とても綺麗にされていて、御供物もされていましたよ!

 東播磨最大の勢力を誇る三木城主・別所長治と、織田信長の部将・羽柴秀吉(豊臣秀吉)との間で起なわれた「三木合戦」。その戦いでは、「三木の干殺し」といわれる秀吉の兵糧攻めが行われました。籠城開始から2年後の天正8年(1580年)1月、長治公は、飢えに苦しむ家臣や領民の命を救う事を条件に、開城を決意しました。長治公が自刃する時、雲龍寺の住職に後を託し、愛用の金天目の湯呑みを贈ったそうです。自害のあと、住職が別所長治夫妻の首を貰い受けて埋葬したと伝わるのが、この「別所長治公首塚」です。
 また、雲龍寺には長治公が愛用したとされるあぶみが大切に保管されているそうです。

別所長治という人物

 別所 長治(べっしょ ながはる)は、三木城の城主で、「三木合戦」で敗れ自害したことでも知られる戦国武将です。
 元亀元年(1570年)のことです。別所家の当主であった父・安治が亡くなると、当時 若干13歳(諸説あり)だった長治は、別所家の家督を継ぐこととなりました。別所家は、早くから織田信長に従っていましたので、長治も信長に従うことにしました。
 しかし、織田信長が中国地方の毛利攻めを行なっている最中、長治は突然反旗を翻します。そして三木城に立て篭もりました。いわゆる「三木合戦」です。
 三木合戦で長治は敗れ、一族ともに自害しました。享年23、または26とされています。

「別所長治公像」(三木城跡)

三木合戦とは

 戦国時代の天正6年(1578年)のことです。
 織田信長が中国地方の毛利攻めを行なっている最中、もともとは信長に従っていた三木城主・別所長治は、突然反旗を翻します。そして三木城に立て篭もりました。
 三木城には、長治に賛同した国人衆や浄土真宗の門徒など、東播磨一帯から約7500人も集まったと言われています。しかし、それは大きな食糧問題にもなったそうです。
 三木城攻略を任された羽柴秀吉は、兵糧攻めを行いました。三木城下町を焼き払い、三木城の支城を攻め落とし、三木城を孤立させたのです。
 その後、秀吉は長治に開城する様に勧告しました。長治は、飢えに苦しむ家臣や領民の命を救う事を条件に、開城を決意します。そして、長治は妻子や弟らとともに自害し、三木合戦は終戦となりました。

地図・住所・詳細

【住所】〒673-0432 兵庫県三木市上の丸町9−4

【駐車場】専用の駐車場あり(無料)

【公共交通機関でのアクセス】
・神戸電鉄(粟生線)「三木駅」下車徒歩約12分(約850m)
・神戸電鉄(粟生線)「三木上の丸駅」下車徒歩約11分(約750m)

今回紹介した場所の動画はこちら


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