三木合戦の舞台となった城
播磨三大城のひとつ!戦国時代には、三木合戦の舞台に!今回は、三木市上の丸町にある三木城跡にやって参りました〜♪
東播磨最大の勢力を誇る三木城主・別所長治と、織田信長の部将・羽柴秀吉(豊臣秀吉)との間で起なわれた「三木合戦」は、あまりにも有名です。この戦では、「三木の干し殺し」と呼ばれる兵糧攻めが行われました。
また、播磨三大城のひとつにも数えられていますよ。
ちなみに播磨三大城とは、
三木城を含め、小寺氏の御着城と三木氏の英賀城の3城を言うそうですよ〜♪
現在では、本丸周辺が「上の丸公園」として整備されています。天守閣は再現されていませんが、天守台からの見晴はとても良かったですよ〜♪
また、別所長治公像やかんかん井戸など、見どころもたくさんありましたよ〜♪
三木城は、別名「釜山城」や「別所城」とも呼ばれているそうですよ〜♪
見どころ
天守台
別所長治公像
かんかん井戸
三木合戦とは
戦国時代の天正6年(1578年)のことです。
織田信長が中国地方の毛利攻めを行なっている最中、もともとは信長に従っていた三木城主・別所長治は、突然反旗を翻します。そして三木城に立て篭もりました。
三木城には、長治に賛同した国人衆や浄土真宗の門徒など、東播磨一帯から約7500人も集まったと言われています。しかし、それは大きな食糧問題にもなったそうです。
三木城攻略を任された羽柴秀吉は、兵糧攻めを行いました。三木城下町を焼き払い、三木城の支城を攻め落とし、三木城を孤立させたのです。
その後、秀吉は長治に開城する様に勧告しました。長治は、飢えに苦しむ家臣や領民の命を救う事を条件に、開城を決意します。そして、長治は妻子や弟らとともに自害し、三木合戦は終戦となりました。
別所長治という人物
別所 長治(べっしょ ながはる)は、三木城の城主で、「三木合戦」で敗れ自害したことでも知られる戦国武将です。
元亀元年(1570年)のことです。別所家の当主であった父・安治が亡くなると、当時 若干13歳(諸説あり)だった長治は、別所家の家督を継ぐこととなりました。別所家は、早くから織田信長に従っていましたので、長治も信長に従うことにしました。
しかし、織田信長が中国地方の毛利攻めを行なっている最中、長治は突然反旗を翻します。そして三木城に立て篭もりました。いわゆる「三木合戦」です。
三木合戦で長治は敗れ、一族ともに自害しました。享年23、または26とされています。
地図・住所
【住所】〒673-0432 兵庫県三木市上の丸町5
【駐車場】上の丸公園の駐車場を利用可(無料)
【公共交通機関でのアクセス】神戸電鉄粟生線「三木上の丸駅」下車徒歩約3分