勇敢な馬上の武者姿!
戦国の世を生きた東播磨の英雄!勇敢な馬上の武者姿!今回は、三木市上の丸町にある別所長治公像にやって参りました〜♪
現在、三木城の本丸周辺は「上の丸公園」として整備されています。そこでは、馬に跨った三木城の城主・別所長治が、凛々しい武者姿でお出迎えしてくれます。
この別所長治は、ここ三木城を舞台に、羽柴秀吉(豊臣秀吉)と2年にも渡って壮絶な戦い(三木合戦)を繰り広げたことで知られています。
この石像は、忠実に基づいた姿ではなく、別所長治の武者姿をイメージして造られたそうです!
なんや、想像なんか〜い(笑)
三木城とは
東播磨最大の勢力を誇る三木城主・別所長治と、織田信長の部将・羽柴秀吉(豊臣秀吉)との間で起なわれた「三木合戦」は、あまりにも有名です。この戦では、「三木の干し殺し」と呼ばれる兵糧攻めが行われました。
また、播磨三大城のひとつにも数えられています。
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別所長治という人物
別所 長治(べっしょ ながはる)は、三木城の城主で、「三木合戦」で敗れ自害したことでも知られる戦国武将です。
元亀元年(1570年)のことです。別所家の当主であった父・安治が亡くなると、当時 若干13歳(諸説あり)だった長治は、別所家の家督を継ぐこととなりました。別所家は、早くから織田信長に従っていましたので、長治も信長に従うことにしました。
しかし、織田信長が中国地方の毛利攻めを行なっている最中、長治は突然反旗を翻します。そして三木城に立て篭もりました。いわゆる「三木合戦」です。
三木合戦で長治は敗れ、一族ともに自害しました。享年23、または26とされています。
辞世の句「今はただ うらみもあらじ 諸人の いのちにかはる 我身とおもへば 」
三木合戦とは
戦国時代の天正6年(1578年)のことです。
織田信長が中国地方の毛利攻めを行なっている最中、もともとは信長に従っていた三木城主・別所長治は、突然反旗を翻します。そして三木城に立て篭もりました。
三木城には、長治に賛同した国人衆や浄土真宗の門徒など、東播磨一帯から約7500人も集まったと言われています。しかし、それは大きな食糧問題にもなったそうです。
三木城攻略を任された羽柴秀吉は、兵糧攻めを行いました。三木城下町を焼き払い、三木城の支城を攻め落とし、三木城を孤立させたのです。
その後、秀吉は長治に開城する様に勧告しました。長治は、飢えに苦しむ家臣や領民の命を救う事を条件に、開城を決意します。そして、長治は妻子や弟らとともに自害し、三木合戦は終戦となりました。
地図・住所
〒673-0432 兵庫県三木市上の丸町5(三木城跡・上の丸公園内)
【駐車場】上の丸公園の駐車場を利用可(無料)
【公共交通機関でのアクセス】神戸電鉄粟生線「三木上の丸駅」下車徒歩約3分