竹中半兵衛陣所跡【兵庫県三木市】

兵庫

名軍師・半兵衛の陣所

 三木合戦の竹中半兵衛の陣所!陣中で死ぬ事こそ武士の本望!!今回は、三木市平井にある竹中半兵衛陣所跡にやって参りました〜♪
 もともと病弱だった竹中半兵衛は、「三木合戦」の最中に、ここ平井山の陣中で病死したそうです。半兵衛は、「陣中で死ぬ事こそ武士の本望」と言い、闘病の中、戦場に立ち続けたと言われています。

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 近くには、「竹中半兵衛の墓」と「秀吉本陣跡」もあります。
 「秀吉本陣跡」の登山口には駐車場もあるので、そこに車を停めて3つを巡ってみてはいかがですか?

(伝)竹中半兵衛陣所跡
(平井村中村間ノ山付城跡)
所在地:三木市平井・細川町細川中

 三木合戦の際、秀吉本陣の北側の守備を担っていました。南西に三木城を望みます。
 城主は『播磨鑑』・『別所軍記』によると、秀吉の軍師である竹中半兵衛とされています。
 土塁に囲まれた主郭は、東西15m、南北11mの長方形を呈しており、南側には虎口(出入口)を設けています。
 主郭の北東面は、土砂崩れによって切り立った崖になっています。北西斜面には帯曲輪状(主要な曲輪の周囲に配置される細長い曲輪)の平坦地がみられます。

平成26年3月 兵庫県三木市教育委員会

(現地案内板より)

三木合戦とは

 戦国時代の天正6年(1578年)のことです。
 織田信長が中国地方の毛利攻めを行なっている最中、もともとは信長に従っていた三木城主・別所長治は、突然反旗を翻します。そして三木城に立て篭もりました。
 三木城には、長治に賛同した国人衆や浄土真宗の門徒など、東播磨一帯から約7500人も集まったと言われています。しかし、それは大きな食糧問題にもなったそうです。
 三木城攻略を任された羽柴秀吉は、竹中半兵衛の進言により兵糧攻めを行いました。三木城下町を焼き払い、三木城の支城を攻め落とし、三木城を孤立させたのです。
 その後、秀吉は長治に開城する様に勧告しました。長治は、飢えに苦しむ家臣や領民の命を救う事を条件に、開城を決意します。そして、長治は妻子や弟らとともに自害し、三木合戦は終戦となりました。

地図・住所・詳細

【住所】〒673-0421 兵庫県三木市平井あたり

【駐車場】
・専用の駐車場ありません
(秀吉本陣跡登城口の駐車場から徒歩で約10分)

【公共交通機関でのアクセス】
・神戸電鉄(粟生線)「恵比須駅」下車徒歩約45分(約3000m)

今回紹介した場所の動画はこちら


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