細川ガラシャの眠る寺院!
歴史好きにはたまらない!歴史スポット満載のお寺!今回は、東淀川区東中島にある崇禅寺にやって参りました〜♪
ここ崇禅寺(そうぜんじ)には、室町幕府の第6代征夷大将軍・足利義教の首塚があるほか、明智光秀の三女で細川忠興の正室の細川ガラシャの墓、「遠城兄弟のだまし討ち」で知られる遠城兄弟の墓、他にも徳叟亨隣の墓などがあり、歴史ファンが多く訪れる寺院です!
崇禅寺の境内は、一時期 摂津県の県庁が置かれていた事もあり、大阪府の史跡に指定されているそうです!
って、摂津県っていうのがあったんですね〜(笑笑)
足利義教の首塚
足利義教の首塚
嘉吉元年(1441年)6月24日、播磨守護の赤松満祐(1381ー1441年)は室町幕府6代将軍足利義教(1394ー1441年)を京都西洞院の自邸に招いて殺害して(「嘉吉の乱」という)領国に落ちのびる途中、義教の首を当寺に埋葬した。その討伐に戦功のあった細川持賢(1403ー1468年)は摂津守護に任ぜられ、翌嘉吉2年(1442年)に当寺を義教ならびに細川家の菩提寺とした。その後も、甥の管領細川勝元(1430ー1473年)から手厚い庇護を受け、寺領の拡大と整備がなされた。
(現地案内板より)
細川ガラシャの墓
細川ガラシャの墓
関ヶ原合戦の直前の慶長5年(1600年)7月17日、明智光秀(1528ー1582年)の三女で細川忠興(1563ー1646年)の正室であった細川ガラシャ(1563ー1600年)は、西軍の石田三成に人質として取られるのを拒絶して大坂玉造の細川邸で家老・小笠原小斎の長刀のもとに、38歳の生涯を閉じた。宣教師のオルガンティーノが細川邸の焼け跡から遺骨を拾い、細川家ゆかりの当寺に埋葬した。戒名は秀林院華屋宗玉大姉。周りの小さな五輪塔は殉死した家臣たちの墓である。
(現地案内板より)
遠城兄弟の墓
遠城兄弟の墓
江戸時代の正徳5年(1715年)11月4日、崇禅寺馬場において大和郡山藩の藩士、遠城治左衛門と安藤喜八郎(安藤家に養子入り)の兄弟が末弟の遠城宗左衛門の仇、生田伝八郎を討とうとして返り討ちとなった。この事件は赤穂浪士の討ち入りからわずか13年後のことで、特に竹田小出雲・近松半二らの合作による浄瑠璃「敵討崇禅寺馬場」で一躍有名になった。当寺住職14世門啓天岑和尚と元江戸町与力の勝見宗春が「剣樹心英居士、刀山天雄居士」の墓碑を建立して兄弟の菩提を弔った。
(現地案内板より)
地図・住所
【住所】〒533-0033 大阪府大阪市東淀川区東中島5丁目27−44
【駐車場】専用の駐車場が有ります。(無料)
【公共交通機関でのアクセス】
・阪急京都線「千里線崇禅寺駅」より徒歩約5分
・JR「新大阪駅」東口より徒歩約10分