陣中で死ぬ事こそ武士の本望!
陣中で死ぬ事こそ武士の本望!羽柴秀吉に仕えた名軍師!今回は、三木市平井にある竹中半兵衛の墓にやって参りました〜♪
平井山の麓のぶどう畑に囲まれた静かな場所に、白壁で囲まれた一角があります。このあたりで行われた「三木合戦」の最中、病気で命を落とした竹中半兵衛のお墓だそうです。半兵衛は、「陣中で死ぬ事こそ武士の本望」と言い、闘病の中、戦場に立ち続けたと言われています。
竹中半兵衛は、三木を攻めた羽柴秀吉側だったにもかかわらず、現在でも地元の人から手厚く供養されているそうです。
お墓の前には、お花や御供物がしてありましたよ〜♪
竹中半兵衛の墓
(たけなかはんべえのはか)
一世の軍略兵法家として知られた竹中半兵衛重治は、初め斎藤龍興に属し、後に織田信長に従い、秀吉と共に各地に転戦し殊勲を立てました。しかし、三木城攻防戦がたけなわの頃、平井山の陣中に胸を病み、一時は京都に移って療養していましたが、固着した戦況を心配し此の地に帰ってきました。けれども、病魔には勝てず天正7年6月13日、36歳の若さをもって永歿しました。臨終の時、秀吉に対して将来の「天下人」と予言し息を引き取りました。秀吉は「お先まっくら」と人前もはばからず遺体にとりすがったといわれます。
(現地案内板より)
三木合戦とは
戦国時代の天正6年(1578年)のことです。
織田信長が中国地方の毛利攻めを行なっている最中、もともとは信長に従っていた三木城主・別所長治は、突然反旗を翻します。そして三木城に立て篭もりました。
三木城には、長治に賛同した国人衆や浄土真宗の門徒など、東播磨一帯から約7500人も集まったと言われています。しかし、それは大きな食糧問題にもなったそうです。
三木城攻略を任された羽柴秀吉は、竹中半兵衛の進言により兵糧攻めを行いました。三木城下町を焼き払い、三木城の支城を攻め落とし、三木城を孤立させたのです。
その後、秀吉は長治に開城する様に勧告しました。長治は、飢えに苦しむ家臣や領民の命を救う事を条件に、開城を決意します。そして、長治は妻子や弟らとともに自害し、三木合戦は終戦となりました。
地図・住所・詳細
【住所】〒673-0421 兵庫県三木市平井
【駐車場】専用の駐車場ありません(平井公民館横の駐車場を利用可)
【公共交通機関でのアクセス】神戸電鉄(粟生線)「恵比須駅」下車徒歩約30分(約2000m)