三木城鷹尾山城遺跡【兵庫県三木市】

兵庫

三木合戦の主要防衛ライン!

 三木合戦では、主要防衛拠点に!落城後は、三木城への攻撃拠点に!今回は、三木市福井にある三木城鷹尾山城遺跡にやって参りました〜♪
 三木市役所に車を停めてすぐのところ、体育館の横に案内板が立っていました。その脇の、フェンスの途切れた所から、山に入って行くことが出来ます。
 三木合戦の際には、三木城主・別所長治の弟・友之がこの城を守備していたそうです。

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 天守閣はもちろん、石垣や砦なども残っていません。
 しかし、それが逆にリアルで、そそりませんか?笑

三木城鷹尾山城遺跡みきじょうたかおやまじょういせき

 鷹尾山城遺跡は二の丸の南東の丘陵上に位置しています。雲龍寺背後の東西に細長い屋根上に築かれていましたが、現在は市役所、文化会館、体育館などが建ち、西端の主郭の土塁や堀などが残っています。
 三木合戦の際、三木城主別所長治の弟・友之ともゆきがこの城を守備していました。
 しかし、天正8年(1580)1月11日、羽柴(後の豊臣)秀吉方の攻撃によって落城しました。落城後は、秀吉がこの城に入り、三木城に対し降伏勧告を行いました。

平成26年7月 兵庫県三木市教育委員会

(現地案内板より)

主郭

主郭(しゅかく)

 西側を除く三方に最高所約3mの土塁どるいがめぐっています。切岸きりぎし直下の西側と南側に横堀よこぼりがめぐり、防御性を高めています。
 「播州三木古城図」にも土塁と堀が描かれています。

令和2年3月 三木市教育委員会

(現地案内板より)

堀切

堀切(ほりきり)

 東側に続く尾根筋からの敵兵の侵入を防ぐ役割を果たしています。土橋により、東側との連絡ができるようになっています。

令和2年3月 三木市教育委員会

(現地案内板より)

三木合戦とは

 戦国時代の天正6年(1578年)のことです。
 織田信長が中国地方の毛利攻めを行なっている最中、もともとは信長に従っていた三木城主・別所長治は、突然反旗を翻します。そして三木城に立て篭もりました。
 三木城には、長治に賛同した国人衆や浄土真宗の門徒など、東播磨一帯から約7500人も集まったと言われています。しかし、それは大きな食糧問題にもなったそうです。
 三木城攻略を任された羽柴秀吉は、兵糧攻めを行いました。三木城下町を焼き払い、三木城の支城を攻め落とし、三木城を孤立させたのです。
 その後、秀吉は長治に開城する様に勧告しました。長治は、飢えに苦しむ家臣や領民の命を救う事を条件に、開城を決意します。そして、長治は妻子や弟らとともに自害し、三木合戦は終戦となりました。

地図・住所

【住所】〒673-0433 兵庫県三木市福井1943

【駐車場】三木市役所・三木市文化会館の駐車場を利用可(無料)

【公共交通機関でのアクセス】神戸電鉄粟生線「三木上の丸駅」下車徒歩約15分

今回紹介した場所の動画はこちら


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