勝龍寺城の北方防御ライン
戦国時代に造られた土塁と空堀が今も残る!勝龍寺城の北方防御ライン!今回は、長岡京市東神足にある勝竜寺城 土塁・空堀跡にやって参りました〜♪
勝龍寺城から北東に約200m、神足神社の南側に、勝竜寺城の土塁と空堀の跡が残っています。
勝龍寺城は北からの攻撃に弱かったらしく、城主・細川藤孝が改修して造られたそうです。当時この辺りにあった神足城の土塁や堀を利用したのではないかと考えられているそうです。
ここには、敵の侵入を防ぐための「横矢掛かりの虎口」があったそうで、それが再現されていました。
城を攻める側、守る側、両方の気分が味わえますよ〜♪
勝竜寺城 土塁・空堀跡
永禄11年(1568)に足利義昭を奉じて織田信長が入京すると、それに従った細川藤孝(のちの幽斎)は、しばらくして勝竜寺城に入りました。
藤孝は、元亀2年(1571)に、信長の許可を得て勝竜寺城の改修を行いました。ここに現存する土塁と空堀は、城下町を囲うように設けられた外郭線の一部で、その時の改修に伴うものと考えられています。天正8年(1580)に藤孝は丹後へ移封となり、翌9年には信長の近臣である矢部家定と猪子高就が勝竜寺城の城代となります。天正10年の山崎の合戦では、明智光秀の軍勢が陣取りますが、その後に廃城となりました。
勝竜寺城本丸の北東に位置するこの土塁・空堀跡は、東西に約50m、堀の底からの高さ約6mが残っています。土塁の西端は南北方向の土塁と連結し、複雑な構造となっています。空堀は土塁に沿って北側から東側にかけて掘られ、南北土塁から東へ約20mのところには、土橋を架けて横矢掛かりの虎口をつくり、敵が容易に城内へ入れない仕組みになっています。
これらの築城技術は、藤孝が信長から取り入れたものと考えられます。短期間で使用を終えたため、築城の時期が特定できる大変貴重な遺構です。
平成27年3月
長岡京市
(現地案内板より)
土塁下層の堀
土塁下層の堀
発掘調査により、現存する土塁の下から東西方向の堀が見つかりました。その堀は、幅約4,5m、深さ約1,5mの大きさで、断面が逆台形のいわゆる箱堀です。埋土の状況から南北方向の土塁を作る直前まで機能していたことがわかっています。堀の位置や方向は、現存する空堀にも踏襲されているようです。
この堀は、細川藤孝以前に当地を拠点とした土豪神足氏の城館に関する施設の可能性が高いと考えられます。
平成27年3月
長岡京市
(現地案内板より)
堀と土橋
堀と土橋
堀は、土の推積のようすから、空堀であったことがわかります。その大きさは幅約7m、深さ約3mで、土塁に沿って配置されていたようです。
空堀に架かる土橋は、幅約1mしかなく、大勢の敵が一度に城内へ入ることができない仕組みになっていました。幅が狭く崩れやすいため、堀底から幾層も土を重ねて、堅固に築かれていました。
平成27年3月
長岡京市
(現地案内板より)
横矢掛かりの虎口
横矢掛かりの虎口
前方約20mの所に東西方向の堀を渡る土橋があります。
城外から攻めてくる敵は、深い堀と高い土塁に阻まれるため、この土橋を渡って虎口(城の入口)から城内に入らざるをえません。城を守る兵は、あらかじめ逆L字形に折れた土塁のこの場所に登って、土橋に照準を合わせておきます。そうすることで、一か所に集中する敵兵を側面から効果的に射撃することができます。
このように側面攻撃を意識して折れ曲げた防御線のことを横矢掛かりといいます。
平成27年3月
長岡京市
(現地案内板より)
地図・住所
【住所】〒617-0832 京都府長岡京市東神足2丁目16−15
【駐車場】有り(無料)
【公共交通機関でのアクセス】JR「長岡京駅」東口から南へ徒歩約10分