秀吉の紀伊攻略により焼失!
羽柴秀吉の紀伊攻略により焼失!紀州徳川家により再建!今回は、岩出市根来にある大門にやって参りました〜♪
天正13年(1585年)の羽柴秀吉による紀伊攻略の際、根来寺は「大師堂」や「大塔」など数棟を残して焼け落ちました。この時に、この「大門」も一緒に焼失したと言われています。その後、江戸時代には、紀州徳川家の庇護のもと、主要な伽藍も復興されました。そして、嘉永5年(1852年)には、大門も再建されたと伝わります。
この大門は、近くにある根来寺の一部に数えられます。
また、道を挟んで向かい側には、根来寺の愛染院もあります。
根来寺にお越しの際には、ここにも寄ってみてはいかがでしょうか?
【大門の詳細】
・高さ 16.88メートル
・幅 17.63メートル
・奥行 6メートル
・五間三戸二階二重門、入母屋造、本瓦葺。
大門の左右には仁王像を配しています。また、上層には釈迦三尊と十六羅漢像が安置されているそうです。
令和元年(2019年)には、国指定の重要文化財に登録されました。
根来寺とは
根来寺の境内には、国宝の「大塔」をはじめ、重要文化財の「大伝法堂」や「大師堂」など、数多くの貴重な文化財が残っています。また、紅葉の名所としても知られており、「根来寺庭園」は、国の名勝に指定されています。
愛染院とは
愛染院は、根来に鉄砲を持ち込んだ、根来衆の大将・杉ノ坊の住居跡と伝わります。根来への鉄砲伝来や杉ノ坊に関しては諸説ありますが、根来衆が鉄砲で武装し、軍事力を強める事となった起源が、ここ愛染院だと言われています。
根来衆とは
根来寺の僧兵たちの集団を、根来衆(ねごろしゅう)と呼びます。根来衆の長・杉ノ坊により鉄砲が持ち込まれ、鉄砲で武装した傭兵集団として知られています。僧兵1万人を抱える、紀州屈指の大勢力だったと言われています。
織田信長を狙撃したのは根来衆の門徒だという説もあります。しかし、当時の根来衆は信長と友好関係を築いていたので、その説は定かではありません。
その後、羽柴秀吉の紀州征伐により攻め滅ぼされました。一部の根来衆の残党は伊勢に逃れ、そして徳川家康に従ったと言われています。
地図・住所・詳細
【住所】〒649-6202 和歌山県岩出市根来
【駐車場】専用の駐車場あり(無料)
【拝観料】無料