薄田隼人正兼相 墓・碑【大阪府羽曳野市】

大阪

大阪の陣で活躍した戦国武将の墓

 遊女と戯れている間に、砦を落とされる!豊臣秀吉・秀頼に仕えた戦国武将!今回は、羽曳野市誉田にある薄田隼人正兼相 墓・碑にやって参りました〜♪
 羽曳野市誉田の住宅街の片隅に、薄田隼人正兼相(すすきだ はやとのかみ かねすけ)のお墓と石碑が建っています。徳川家康織田信長ほど有名な戦国武将ではありませんが、豊臣家に仕え、大坂の陣では侍大将として大活躍したそうです。

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このお墓は、子孫にあたる浅野家の一族によって建立され、平成8年(1996年)に羽曳野市の指定有形文化財となっているそうです♪

薄田隼人正兼相とは

 薄田隼人正兼相(すすきだ はやとのかみ かねすけ)は、戦国時代から江戸時代初期に活躍した武将です。名は兼相、隼人正は通称名です。
 豊臣氏に仕官し、秀吉・秀頼に仕えました。秀吉の時代には馬廻り衆として、秀頼の時の大坂の陣では侍大将として活躍しました。
 1615年(元和元年)の夏の陣では、この辺りで道明寺の戦いが繰り広げられました。兼相誉田八幡宮付近の誉田林に陣をかまえていました。そして、東西両軍が相まみえた激しい戦火の中で奮戦しますが、押し寄せる東軍のために間もなく戦死したと言われています。しかし、不利な状況の中での、その勇ましい戦いぶりは、長く天下に名を残すことになったのです。

 薄田隼人正兼相は、大阪冬の陣には豊臣方の侍大将として参戦します。その際、守将に任命されて博労ヶ淵砦を守っていました。
 ある戦いで大勝利した時のことです。もともと大の酒好きだった兼相は、新町の色里で遊女と戯れている隙に、徳川方に博労ヶ淵砦を落とされてしまいました。
 そのため、味方からも「橙武者(だいだいむしゃ)」と軽蔑されてしまいました。

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 橙武者のいわれは諸説ありますが、、、
 正月飾りに使う橙(だいだい)は、見た目は大きく立派だが、中身は美味しくない。見掛け倒しだ。
 という事なんだそうですよ〜♪
 しかし、さんざんな言われ様ですね(笑)

逸話

 兼相は、講談本「立川文庫」のヒーローの一人である豪傑岩見重太郎(いわみ じゅうたろう)のモデルであると言われています。

 大阪市西淀川区野里にある住吉神社には、兼相に関する逸話が残されています。
 風水害に見舞われていたこの地には、毎年 生贄として若い娘を神社に差し出すという風習がありました。そこを通りかかった兼相が、人間の女性を攫うとされる大きな狒々(ヒヒ)を退治したと言うものです。

大阪夏の陣の舞台となった羽曳野市誉田

 元和元年(1615)、豊臣秀頼とその母・淀殿らが守る大阪城を、徳川家康らの軍勢が攻め込みました。いわゆる大坂夏の陣です。
 この戦いの局地戦が、ここ羽曳野市誉田藤井寺市道明寺付近にかけての一帯でも行われました。それが道明寺の戦いです。
 道明寺の戦いでは、豊臣方の後藤又兵衛(基次)や薄田兼相などの武将が討ち死にし、徳川方の勝利で終わっています。

地図・住所

【住所】〒583-0857 大阪府羽曳野市誉田7丁目2−20

今回紹介した場所の動画はこちら


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